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《 楽しき哉人生(旅)》群馬芸術文化協会「炎」1998年3月号

 多くの友人は私のことを幸せだ、よい人生だと言ってくれるが、ときにはそんなものかと考えることもある。周囲の人と比較して各地への旅行を楽しんでいるからであろうか、毎日をアトリエで好きな絵を描いているからであろうか、 しかし偶然そのようになったのではない。私の前身を知る人は多いと思うが。

 1986年迄、靴店の親父であった。それも大型店数店と喫茶店と画廊を経営し、人一倍多忙な生活であったのだ。
 或る秋、会社の旅行で金沢市で開かれた海洋博覧会へ行き、腹痛を起こして帰り、直ぐに入院。盲腸炎で腹膜炎を併発し退院がおくれた。仕事には数日で復帰したが、体は思うように動かない。 特に油絵の持ち運びには、すぐ息切れして作業にならなかった。 これは大変なことと新紺屋町の靴店から鞘町の画廊の間、約500mを背広姿で走った。すぐ息切れして足も前に出ず、三、四回も歩いたが、兎に角、私のジョギングの第一歩である。 あまりにも思うように走れないので、仕事との帰り、和田橋付近から乗附町丸山団地の我が家迄を休み休み走った。 又、自宅に帰ってから高崎高校付近を走る場としたが、2000mを休まず走るのに2カ月近くもかかった。

 だが、2km走れるようになると、あとはぐんぐん力がつき、翌年4月前橋敷島公園で開催された、県スポーツ新興団主催のマラソン大会に、50才以上3000mに出場した。ときに61才、17分以上かかり、ラストから4番目であったと思う。 初めての大会出場で少々苦しかったが、遠方から孫たちも応援に来てくれ、非常に嬉しかった。
 私はもともと頑健な生まれではない。だが常に多忙な日常である。従業員も数十名いる。厳しくとも経営は存続の義務もある。それには自分の健康以外に、頼れるものはない。 健康の維持こそ最も重要な課題だ。ジョギングの成果かわからないが、なんとなく体調はよいようだ。ジョギングを続けてみよう、と決心した。
 それに走ってみるとなかなか面白いもので気分もよい。走る友人も増えてきた。各地の大会も出場してみたくなった。 勝手な理屈かもしれないが、マラソン大会なら大義名分が立つ。健康維持のため、健康増進の大目的があるからである。

 かくして、県内の大会は勿論のこと、河口湖マラソン、日本平マラソン、アルプス勝浦マラソン等々、遂にはハワイのホノルルマラソンまで、妻と二人で出場した。画廊があるためにできた絵の先生や友人、私はマラソン大会の度に各地の景勝地を描くことができた。 特に富士山は魅せられて春秋には必ず訪れるようになった。

 私の今年の北海道行きはキャンバスをもって7度目であるが、体調が勝れず、中止するところであったのだが、意を決して断行した。
 然し、やはり少々無理であった。前々からの呼吸困難と今回は筋肉リウマチと診断され、大雪山系の旭岳の登頂は困難を極めた。文字通りの三歩進んでは一歩下がり、又三歩登っては休み、酸素補給をしながら、キャンバスだけを持ち、絵具類は妻に持ってもらった。 それでもどうやら夫婦池までたどりつき、8号を描くことができ、嬉しかった。

 製作中は雲がかかったが、徐々に雲が切れて、北海道の屋根といわれる旭岳の威容はすばらしかった。大小の流れ雲は時々通り過ぎ、数カ所から昇る絶え間ない噴煙、緑の蝦夷松とナナカマドの紅葉、只見惚れるばかりである。
 今回の北海道旅行には特に嬉しいことが二度あり、それを紹介することにする。

 釧路湿原でのことである。国道を走っていたので、左に曲がればよいと思っていたが、標識は見当たらず釧路市の北部迄走ってしまった。近くに小型車があり、土地の青年らしき人がいたので道を聞いたところ、私が近くまで行くからついて来てくださいという。 ハイと答えてから後をついていくと右に曲がり左に曲がり何回もの信号待ちを繰り返して広い道路に出た所で、あの向こうの少し高い所が、展望台ですと言ったと思うと、すぐに反転して帰ってしまった。ハッと思ったがもう青年も車もない。 約30分もの道案内して戴いたのだ。馬鹿アホウの私は自分の愚かさに腹がたった。親切な青年の名も聞かず、御礼もしない、大変な恩知らずである。この釧路失言での青年の好意は一生忘れないであろう。

 翌日、湿原を一廻りし、別の見晴台から10号を描くことが出来たし、半野生の丹頂鶴の英姿にも接することができた。次の日380kmの工程乍ら予定より早く富良野に入り、見過ごすことのできない小高い丘の風景があり、すぐ製作にかかった。
 道路脇であったので、人目にもつき、通行人が次々と立ち止まって、よい趣味ですねとか、まあキレイとか言って、少し見ては立ち去って行く。その中に初老の男性がいて、この辺は特別に景色がよいので、いつも画家がきております。 先日も美術学校の先生が、私の家に5日も泊まり何枚も描いて帰りました。今夜は家に泊まりゆっくり描いて行きませんか、と親切な言葉。話してみると俳句を趣味としているので話題も弾んのだが、 少し経つと車から大きなカボチャを4個も持ってきて、富良野産だから食べてみて下さいと、とビニール袋を差し出す。私は思わず妻と顔を見合わせ乍ら、おそるおそる手を出して戴いた。
 10分程前、富良野で初めて顔を合わせた人であり、北海道と内地では、もう二度と逢うこともないだろう人である。何で私にくれるのであろう、好意か人情か、これが人間の暖かさといえるものだろうか、何かこみ上げるものを感じ乍ら戴いた。 私は今度の北海道旅行のみならず数々の好意や人情に触れてきた。

 北アルプス、富士山、奥入瀬、房総等々、名勝の地を訪れ風景画を描いた。マラソン大会出場の目的があったからだ。  春は花、夏の緑、秋の紅葉、冬景色と残雪、日本中の彼方、此方から誘いの手が伸びてくる。しかしそれは必ずしも風景の美しさだけではない。そこに人がいて、人情があり、それぞれ逢いたい人がいるからであろう。
 以下、私の心に残る思い出を語ろう。順序は不同だが、初めて北海道にキャンバスを持参した時のことである。北海道であるから何をおいても十勝平野と考えて三日程平野を廻った。南富良野の街道ので丘の中腹の赤い屋根の家を発見し、すかさず車を農道に入れた。 前は一面の広い玉葱の畑。その先は別の緑の野菜畑、目的の一軒家は大きな針葉樹と何本かの闊葉樹、物置小屋らしい別棟もあり、後方はあまり高くない山の林、その前は収穫後の畑地があり、色のコントラストが実によい。 絶好の写生地である。すぐキャンバスを出して描き始めた。
 しばらくすると近くの若い主婦らしき人が、子供を二人連れて寄ってきた。ああキレイ、あの家は私の親戚の家で前の玉葱畑は私の家のものです。 ゆっくり描いて下さいと言ったかと思うと、近くの家からスイートコーンの缶詰2コとワイン1本を持ってきて、今の季節は何もないんです。これをお持ち下さいと差し出した。
 私は主婦と子供の顔を見ながら手を出した。その後、お茶を戴き、初めて作ったというビニールハウスのメロン畑を案内され、厚くお礼を申し上げて帰った。

 数日過ぎてから、南富良野スミレ三田村様からメロンが1箱送られてきた。依頼したのではない。善意である。嬉しい好意である。
 その後、ジャガイモや玉葱を何度か送ってくれ、メロンは今でも毎年である。こんな嬉しいことが世の中に度々あるのであろうか。私達だけなのだろうか。北海道の人はみなよい人ばかりなのだろうか。
 以下、嬉しかった話をいくつか間単に紹介する。

 北アルプスでのこと、山の名が分からず、近くのに寄ってきた人に聞くと、チョット待って下さいと言ったかと思うと、家に掛けてあったらしい銅製の立派なレリーフを持ってきて、これを見て下さい、間違うと困るからと、大きなリンゴを2コ持ってきてくれた大町の人。
 青森では道路脇のリンゴ園で主婦に少し分けてくれますかと言ったら、昔からある木のリンゴ箱によいものばかりいっぱい詰めて、1000円下さいと言った。30個以上入っていたのではないだろうか。
 房総勝浦では真新しい檜の広い風呂で、極上の刺身と焼き魚も出して3800円であった。

 穂高の民宿コブシのママは特別の世話好きで、1m以上もあるゴボウと無農薬のリンゴを毎年送ってくれ、料理も美味しい。
 野辺山のペンション前で、レタスを収穫していたので、少し分けて戴くと、帰り際主人らしき人が、さっきはお金を戴き過ぎたからと、3倍ものレタスを車に積み込んでくれた野辺山高原広瀬の農家の人。翌年お礼を兼ねた心意で訪ねたら、赤飯を炊いて待っていてくれた。
 私のよく泊まる北海道美瑛のペンションBIBIのマスターは、たとえ一人の宿泊客であっても、毎朝一時間以上も観光案内してくれ、料理もおいしく、部屋も清潔で気分がよい。
 旅って本当に楽しい。これが平和な社会の証しなのであろうか。

 三年前、片岡町に 《 アトリエ途苦絵 》 を造った。特別絵に苦しんでいる訳でもないが、そんな名前になった。
 60m2の広さで、平常は私の絵が陳列してあるが、勿論売るための場ではない。ノンビリ絵を描く場であり、80才を過ぎると厄介者であり、訪ねてくる人も少なくなり、愁しくなるので、遊びの場として造ったのだ。
 見る語る遊ぶ、健康の話、絵の話、ゴルフやジョギングの話等、何でもよい。楽しくお茶を飲み乍らの語り合える広場としたい。カラオケやクラシックのCDもある。一人でも数人でもよい、お遊びにどうぞ。








 三田村農園・富良野

 ペンションビビ・美瑛





《 徳江時三郎 (1915〜1998年)・年譜 》
1915年 群馬県藤岡市に生まれる
1945年 ビルマ(ミャンマー)の野戦輸送司令部勤務時に終戦。ビルマで多くのスケッチを残す

1947年 株式会社イセヤシューズ設立(40年経営)
1972年 マギー画廊創設
1975年 油絵を始め、榛名山を画く
1975年 県展入選、以後連続入選
1976年 個展。於マギー画廊
1976年 日輝会創立会員。1998年まで連続出品
1978年 個展。於マギー画廊
1979年 日輝展 特選
1980年 ハワイホノルルマラソン完走。4時間23分
1982年 日輝展金賞。以後銀賞
1985年 妙義展 努力賞
1986年 個展(古希記念)。於マギー画廊
1987年 ハワイホノルルマラソン、夫婦で完走
1989年 個展。於マギー画廊
1990年 二人展 叔父と甥ブラジル。於高崎スズランデパート
1991年 五人展。於JR高崎ステーションギャラリー
1992年 信州展奨励賞。於財団法人岡崎美術館
1992年 アトリエ途苦絵オープン記念絵画展
1992年 五人展。於JR高崎ステーションギャラリー
1993年 富士展個展。於アトリエ途苦絵
1993年 五人展。於JR高崎ステーションギャラリー
1994年 人生80遊画遊走20年回顧展。於高崎シティギャラリー
1994年 夏の北海道展。於赤城ロマンド
1994年 五人展。於JR高崎ステーションギャラリー
1995年 五人展。於JR高崎ステーションギャラリー
1996年 夏の北海道展。於高崎ユーホール
1996年 北イタリアの旅6人展。於高崎シティギャラリー
その他 群馬芸術文化協会展、高崎市民芸術展、群輝展、グループ展等に出品。
日輝会美術館(利尻富士町、群馬県上野村、京北町(現京都市)等)に作品寄贈。
群馬芸術文化協会会員 高崎市民美術展委員 日輝会美術会展委員 群輝会会員
1998年 10月27日逝去(84歳)

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